
女が笑いかけている。
カフェの外で窓側にずらっと並んだ椅子の一つから。
俺は戸惑っている。二人の目があって、色気に満ちた顔が微笑を投げかけている。やけに太った女だ。壁側の込み合った席を避けて、少し離れた路地の上のオープンエアー席に座り込んでギャルソンを呼ぼうと振り返った。で、目が合ってしまった。小さな後悔が、胃に来た。
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半分はシースルーの黒のドレスに豊満な乳房があらわに見えている。ちょいと見、100キロはありそうな女だ。ここは<カサブランカ>だ。イスラムの国だ。男達に混じって<女>が座り込んでいる事自体が、そのことすらが奇異だ。現に女は、その女しかいなかった。
この国では、それすら不敬にあたるだろう。
。。。。
俺には、たっぷりの時間があった。
午後2時にcasa voyage駅に向かい、空港行きの汽車に乗り込めば、午後5時30分のパリ行きの飛行機に十分間に合う。まだ午前の11時半だ。微熱に悩まされながらも、モロッコの旅を終えてパリに戻ろうとしている、それまでの時間つぶしのゲームには成りそうだった。
女は大げさなジェスチャーで、俺に向かって隣の席に来い、と催促している。積極的な意思だ。俺は5秒逡巡して、そして、小さな決心をした。ゆっくりと、バックサックを床から持ち上げ、女の隣席に向かった。そのとき、空間は、そこにしか存在してはいなかった。まったく窮屈な空間だ。隣に座っていた中年の男が、極めて大げさに迷惑そうな顔をあからさまにした。しぶしぶ、その椅子の上の荷物をかたずけた。その、作られた小さな小さな空間に、私は<可愛いひよこ>の様に滑り込んだ。
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肉の固まりのようなアラブ女は、やけに機嫌が良い。イスタンブールから2005年に戻ってきたなどと、聞いてもしない身の上話を始めながら、名前をsafaと名乗った。太った足首から黒の網タイツが覗いている。妖艶を通り越しこして滑稽に属している、と、俺は思った。周りの男達の視線が俺に対して、極端に冷ややかだ。 一人旅の気安さで取り留めて予定があるわけでもない。危うい私のフランス語が、多少の意志は吸い込んで吸収する。
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女は、しきりにこれからの私の予定はと聞き始めた。
2時まで暇ならば、私の家に来ないかと誘いかけてくる。断ればどこのホテルか、と聞く。で、目の前に見えるホテルだが、飛行場に、この朝食が終われば向かわねば成らないと逃げを打ちながら、アラブの商売女にひっかかった日本の馬鹿な男を演じ続ける。女は無遠慮に私のタバコを手にとって一本引き抜いて自分で火をつけた。その上にオレンジジュースまでオーダーした。ここまでなら良い。オレンジジュースにタバコなら安いものだ。もっと手の込んだのを、いつも俺は女にむしり取られている。
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女の無遠慮は尚も続く。
物乞いがやってきてタバコを一本強請って動かない。同意も得ないで、俺のタバコから一本引き抜いて、女はテーブルの上に投げ捨てた。そして、にこっと笑って、私の泊まっているホテルに外部のものは引き込めないのかと聞く。残念ながら100キロ近い女を相手に活躍できるような強靭な<なすび>はもう持ち合わせていない。写真なら撮ってみたい気もするが、それも後々面倒を運んできそうな気もする。その面倒を処理する時間が俺には無い。諦めた。ご招待代を間違っても聞かなかった。
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今度は、女と顔なじみなのか、男盛りの<色男>がやってきて、私の反対側の席に座った。この男も、この国では浮いている。パリのピガール辺りからワープしてやってきたようだ。男は靴磨きに、既にピカピカの靴を磨かせながら、二言三言、女と話を交わした。そして、俺の顔をじっと見つめ、自慢した。
ーーおいおい、俺は英語が出来るんだぜ。英語でしゃべりなよ。
取りあえず靴磨き代は幾らなのかと聞いてみた。2dh。26円だと返してきた。確かに、余りに上等な英語過ぎて、2度聞き返した。それにしても、男の足下に屈んで靴を磨き上げる代金は26円らしい。そのうえ、この靴磨きは俺の友人だ、と色男は自慢した。この男、と、疲れの出た靴磨き、が友人だとは、この国の友情とは? と考えて、止めた。
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1時間も二人に付き合って、そろそろ潮時だと俺は判断した。
カフェのギャルソンに勘定を頼んで、女に別れを告げた。女は大げさに寂しげな顔をして、やにわに紙に自分の電話番号を書き始めた。で、俺は驚いた。
ーー次回来るときは、必ず電話してね。
そう言われたのにはもっと驚いた。次回、来ることがあるとしても何時だろうか、20年後だとしたら、生きていたとして、俺の<なすび>は、まったく役には立つまい、と考えて苦笑した。
1時間を40dhで楽しんだという事だ。
600円のお遊びにしては面白すぎた。お値打ちだ。20万も払って、これほど面白く無いことが日本では多すぎる。
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立ち上がると、路地の一部に強烈な日差しが石畳に反射して、そして、空は抜けるように青い。
白い家、という意味のカサブランカには、俺の<白い家>は見つからなかった。かわりに薄汚れた建物だけが目立って存在している。
そんなものだ、人生とは。